自分のこと

はじめまして。
きっと何かのご縁でこちらをご覧いただいていると思います。

まず始めに、私は同姓愛者であり、HIV陽性です。

その分、時には局所的な内容になることもあると思いますが、少しでも共感できる方々の何かのスイッチを入れることができれば嬉しく思います。

まずは私のことを。

昔から、ある程度の関係を作るのが得意な反面、踏み込んだ関係というものになるとどうしてもしり込みしてしまったり、踏み込んだところで素直になれなかったり、なりすぎたり、端から見たら大なり小なり痛い部分があります。

普通に仲良くしている人たちと一緒にいても
『この人たち、本当はうざがってるかも。』だったり『何か少し違和感を感じさせたら少しずつ距離ができてしまいそう』なり、ネガティブになってしまいます。


一応自分なりに何故こんな厄介な思考なのかはわかっています。

私は何かと振り回されることが多く、小学生のころから仲良しだと思っていた子から仲間外れにされたりすることがしょっちゅうでした。子供って時々残酷ですよね。ただ楽しそうなことを優先するし、悪いことを正してくれる人よりも、一緒に悪いことやって知らん顔してくれる人を友達にしたがる。

その点、私は小さいころから一定の倫理観を持っていたように思います。そのため、中学にいくまではこれといって親友と呼べる友達はできませんでした。


そんな私にも転機が訪れました。
中学二年のクラス替えで、学年のカリスマ的イケメンと同じクラスになったのです。

とにかくかっこよくて、クール、スポーツもできて、おしゃれでイケメン。(兄姉がいる子って変におしゃれの覚醒が早いですよね。)当時はおしゃれとか髪型とかにこだわる子はそういませんでしたから、第一次おしゃれ覚醒期(笑)だった私とはとてもウマが合いました。

何かと一緒にいる機会が多くなり、自然と仲良くなり、お互い校外で遊ぶ友達も多くはなかったこともあり、本当にかけがえのない存在でした。

当時の私は、所属していた部活で『がんばる派』『腐る派』のうち、断然『がんばる派』でした。プレーも応援も全力でしたが、そういうのを好まない人たちが多いじゃないですか思春期って。

あるとき、先輩が引退して、自分たちの代になるとき、部長をどうするかという話がありました。当時の私はすでに、“出る杭は打たれる”という意識があり、立候補はしませんでしたし、したいとも思っていなかったのですが、、、、大半を占める『腐る派』のやつらのなかに、“打たれてもいい”という度胸のあるやつはいないこともわかっていました。ただ考えてみたら、『腐る派』は腐ってるなりにそこそこ団結していて、公に彼らに共通の敵を与えれば、チームとしては優秀かもしれない、その敵になるひとがいれば…とも考えていました。立候補がいないとなるとあとは推薦です。彼らの考えることも似ていたようで、私は推薦され、顧問から相談を受けていましたが、中々踏ん切りがつかずにいたとき、例の友人が「俺が副部長やるから、部長やりなよ」と切り出して来たのです。彼はその時部活とは違うクラブチームに所属していて、プレイヤーとしては一流の道を歩んでいました。その彼がクラブチームを辞めて、部活に来てくれると。その時の感動は今でも忘れません。


結果、私は部長を引き受け、彼の力に何度も助けられて、チームを統率できていました。

彼は私が間違ったことをしたり、一時の感情に流されてしまった時にはかならず怒ってくれました。
気まずそうにしていても次の授業でのペア作りなどでは自分から声をかけに来てくれたり。私はそれまで感じたことのない『親友』という存在を肌で感じていて、本当にかけがえのない存在でした。


でも、やっぱり子供って本当に残酷。
あるとき、私が仲の良い女の子の愚痴に付き合っていたときに『○○ちゃんがまたXXくんは私のこと絶対好き!とか自惚れてた』との会話でわたしも親友のイケメンくんも似たようなことを言ってたと話して、『少しナルシストだよね』と言ったとき、彼がこの話を聞いてしまっていたのです。

今思うとどうしてあんなこと話したんだろうと本当に後悔していますが、もう後の祭り。

まずその日の放課後の部活から『一斉無視』が始まりました。彼は副部長ではありましたが、わたしなんかよりずっと影響力のある人でした。
後輩も同級生も一切口を聞いてくれず、挙げ句片付けもグランド整備も誰一人やってくれず、しばらくはずっと一人で広い校庭のグランド整備を行い、やつらが隠したボールをすべて見つけるまで帰れずな日々を過ごしていました。

当時は、あんな余計な会話のせいでと『贖罪』のような気持ちもあり、文句は一言も言えませんでした。


それからはものが無くなるのは当たり前、わざと聞こえるような声でワルクチは毎時間。歩いてて『なんで生きてるの?』と聞こえてくるのは日常茶飯事でした。一番辛かったのは、やさしく声をかけてくれた友人が、翌日みんなで笑いながら私の上履きを切り刻んでいたときなど、露骨な裏切りでした。


家では私が学校のことを楽しそうに夕食時に話すのが当たり前になっていたこともあり、打ち明けられず、毎日嘘をついていました。それも、後で話がややこしくならないように、親同士の関わりが一切なさそうなことを選んで嘘をつき続けていました。

どうして普通に当校して生活できていたのか、今でも謎ですが、1年ほどで私は限界を向かえ、まわりの声全てが悪口に聞こえ、こちらを見ている人がいると何かされると思うようになり、唯一自分を閉じ込める手段だったCDウォークマンを没収されたことをきっかけに、学校から脱走します。

お金もなく、制服とズタズタに穴をあけられた上履きなんかじゃ電車にも乗れず、部活の時間が終わる頃には学校に戻り、先生に呼び出されました。


その耐え続けた1年のこと、家族に嘘をつき続けていること、先生みんなが見て見ぬふりをしていること、全てを泣きながら話したのを覚えています。
それと同時に『ああ、親に言われちゃうんだな』とも思っていましたが、案の定帰宅すると家族会議モード。


そのときの父の言葉は今でも忘れません。

『俺 に 迷 惑 か け る な !』

そして散々ダメ出しされました。
慰めゼロ。


本当に辛いとき、一番支えてくれるはずの家族が自分を攻撃するだなんて。


それがその後の私を作ったんだと思います。

それからは全ての見方が変わりました。

親友は作らない。だって、手のひら返されたときにいじめのネタを与えるだけだから。


辛いときは誰にも話さない。だって、攻撃してくるから。


普通ならここでどこから見ても孤独になりそうなところですが、私は『当たり障りなく、良くも悪くも支障をきたさない関係を作る』はたからみたら『普通』に見えるように生活するようになりました。
親友とか、温かい家族に憧れながら。。


環境的に、決して不幸なわけではなかったはずなのに、未成年にしてとても強い孤独感を持っていました。とにもかくにも、その場その場に合わせたキャラクターを演じきり、切り抜けられればそれでいい
だって、『オリジナルの自分』はとうの昔に価値がないって痛いほどわかってたから。
嘘を数えきれないくらいついた。



それでも時々、辛くなるときはあったけど。
そんな私が見つけたストレス解消法、それがセックス。

とにかく好みのタイプの男に触れられて、モノにしゃぶりついて、中に熱い汁を注ぎ込まれることだけが快感だった。何度か本気で好きになりかけたけど、やっぱりそのあたりは不器用でうまくいかないことばかり。そのたびに新しい男を見つけてはセックスの繰り返しだった。


そして数年前、HIV陽性が発覚した。


仕事を変え、
家を出て、
誰にも言わず、
ただ、生きていた。
そして、今も生きている。

前よりはずっと良好な関係を作れるようになったが、今度は別のことが邪魔をする。

『病気のことを打ち明けたら、きっとこの人は離れていく。そして人伝に私が病気ということが広まり、誰も相手にしてくれなくなる。家族に伝わったら、きっとまた攻撃される……あのときみたいに。』


この恐怖と戦いながら、私は毎日を過ごしている。
これが私の話。


長くなってしまいました。汗
これからも色々書いていきたいと思います。
よろしく。